携帯電話のある暮らしの形態2011-07-13 Wed 01:48
前回の続きみたいな話だけどさ。 僕が生まれた時からの一番生活に変化を与えたものとして、携帯電話があると思うんだな。 いつの間にか自分もコレなしでは生活できない感じになってるし。 でも以前は世の中も携帯電話がなくても成立してたんだよね。 なくてもやっていけたモノが登場して、なくてはやっていけない世の中になる。 そんな事言っちゃえば、多分石器の時代からモノっていうのはそういうもんなんだろうけど。 ほんの10年くらい前に、携帯電話が普及しはじめた時に、まつわる文章書いてね。多分コレにどんどん機能が付いてその内テレビも見られるようになるだろうとか書いてたら、本当に見られるようになっちまってる。 その先に冗談で『バス、トイレ付き』とか『原付ケータイで移動もラクラク(ヘルメット着用義務)』とかが出てくるとか書いたんだよね。 あと、オプションで耐熱タイルを貼り付けると携帯電話で宇宙に行けるが、充電切れると戻ってこれなくなるんで気を付けようとかね。 で、最終的には『ケータイで電話がかけられる!』という画期的な機種が登場するんじゃないかと予想した。 ま、今だったら『ガイガーカウンター機能搭載』って作ればニーズがある気がするよ。哀しい事に。 それはともかく、ケータイが普及して便利になったのは確かだし、もしかしたらケータイがなければ失ってた命だってあるかもしれないから文句はないんだけどさ。 便利になったから生活が豊かになったか? と考えると、そーでもないんじゃないかと。 ケータイがないころは、連絡が取れなくてどーにもならなくたって、それなりにどーにかしていた訳でね。 連絡つかないから分からなかった行く気もない飲み会の誘いもしらばっくれる事が出来なかったりとか、連絡つくもんだから用事が早く片付いちゃって、その余ったはずの時間で何するかって言えば、別な用事作って、こなすために右往左往してたりなんかして。 ただ忙しいんだよね。 簡単にメールできちゃったりもするから、相手との距離感もよくわからんくなる場合もあるだろうし、かと言ってメールで大して中身のある話するでもなく…。 中身のないやりとりに時間を費やすから自分自身と語り合う時間が削られてたりね(いや、結局それも大して中身のない事が多いけどさ)。 単純に、移動しながらケータイの画面ばかり見ててもさ、いつどこに居ても同じ世界しか見ていないような。 前はそういう時に雲の形だとか、すれ違う人の仕草や表情を見てたり、近くで交わされる会話なんかを耳にしてたりしてたんじゃないかね? なんとなく、昔の歌謡曲の歌詞にある情緒とか風情ってそういうところから生まれて来てたような気がする。 ま、何が無駄なのかってはそれぞれだけどさ、例えば簡単に写真撮ったりできないからこそ、なんとなく気持ちに蓄積されていくものとか、移動中に周囲を眺めるしかなくて拡がっていく何かみたいなものがあるんじゃないかと…。 せわしなくケータイいじって端末で繋がる事と、流れる雲を眺めて世界を感じる事がもう少しバランスよくできたらいいなと、特に理屈ではなくて、ふと思った本日はやたらとケータイで連絡しまくっていた。 スポンサーサイト
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