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海月屋・辻正仁『短めでお願いします』

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人類はいつから擂っているのか?

昨夜はマルノクで晩ご飯

それから本間さんとまったり諸々トークしているうちに、じゅんちゃんが登場してぼへ〜っと過ごす。

しばらくして、「山わさび」を擂ろうという話になり、出していただいたのだが、先ほどパスタ二人前をいただいたというのに、一口食べるなりご飯をリクエストいたしまして(笑)。

山わさびでご飯…  最高のひとときでございます。

で、堪能中に「わさびを最初に食べた人はいったいどんな気持ちだったんだろう」という話になりまして。

おそらく、最初にわさびを発見した人は、特に「擂り下ろして薬味として使う」ということを目論んでたわけではなく、そのままガブリと食いついたに違いない。
わさびだよ?

当然、相当ツーンとくると思うのだ。
ま、唐辛子なんかもそうなんだけどさ。
多分、そのまま齧りついても食えたもんじゃないし、刺激の強度からすると「食べ物としては危険、これは食べられない」と判断される方が自然なような気がする。
それでも食べ続けてきたからこそ、今でも我々はわさびを食生活に取り入れているのである。

そして、その過程のどこかで「これはそのまま食べるのではなく、他の食べ物にちょこっと混ぜると、ほどよいアクセントになる」という判断がされているんだよね?

そうしてできあがった文化を、できあがったあとに何も考えずに当たり前のものとして享受するのはとても簡単なことだと思うのだが、一度食してみて刺激が強すぎてそのままは食べられず、ヘタすると毒の部類に仕分けされていてもおかしくないようなものを「コレを擦って別の食材の味付けとして利用すると美味しい」という事を気づいたというか、そういう発想をして試してみた人は、いったいどういう感性をしていたんだろう?

ある種の天才ではないかと思う。
そしてまた西洋文化で、こうして刺激の強い植物を薬味として活用するというものはあまりないように思う。少なくとも僕の貧しい食生活の中にそのようなものが登場した記憶はない。

昨日も話していたんだが、おそらく仏教の影響がある地域、もしくは東洋文化圏の中で発達、洗練、定着してきたものではないだろうかね?
東洋文化を背景とした天才が、多分、経験則プラス著感と発想の飛躍を経て閃いたものではなかろうか?

そしてまた、この「擂る」という調理方法がどういう発想で生まれたのか考えてみると興味深い。

多分、西洋では「小麦を擂って練ると食べられる」というあたりから擂り下ろし文化が始まったんじゃないかと思うが、そっから「擂る」は東洋に伝播したんだろうか? それとも、地域問わずに同時多発的に食べ物を「擂る」とか「擂ったら食べられる」という方法が発見されたのだろうか?

ん〜、そういえばサルとかが皮の硬い果物なんかをつぶして果肉を取り出したりしてるの見た事あるから、もしかしたらそのへんから発達してきたのかもしれないな。

で、「擂る」についてもう一つ考えたんだが、人間って硬いものを咀嚼する時って、奥歯の上下で擂り潰してるんだよね。そうすると段々柔らかくなって食べやすくなるし、旨味が染み出て来てより美味しく感じることもある。それに幼児などはこの咀嚼する力が弱いから、動物なんかでもよくやるけど、親がまずは咀嚼して柔らかくて食べやすい状態にしてやってから子供の口に入れてやることもある。

この辺から来てるのかな?とも思うのさ。

あのさ、多分人間も最初に食べてたものってのは、喰いちぎったり、あるいは手で裂いたりちぎったりして口に入れやすい大きさにしてたと思うのね。
だから、道具を使って「切る」っていうのは、そうした行為の延長線上にあって、そこに道具を活用するっていうことだからワリとスムーズに理解できるんだよね。その発達の経緯が。「刻む」というのも発展系だと思うし。

その系統の食事に関しては、本能的な行為というのかな。
多分、人間も他の動物もだけど「なんで腹が減って食べ物を食べるのか?」なんて事は意識してないでしょ?
腹が減ったら何か口に入れたくなって、それを飲み込んだらお腹が満たされて来てなんだか身体が動けるようになるとかってのは、意識してやらなくても、行為の意味を問わなくてもできる。
そこまで考えて分かってないと「食べる」とかそれに伴う行為に移れないとすれば、生き物は生存できない。

だから、食べるために喰いちぎる、手でちぎる、切るってのは本能的というか、あまり思考が介入しない行為のように思う。

でも「擂る」には思考があるよね。
硬くて歯が立たない物を、道具を使って潰す事で食べられるようにする。歯が立たないものだから「コレは食べ物ではない」ではなくて「この食べられないい物の中に食べられるものがあるかもしれない」とか「この道具使って柔らかくしたら結構食べられるんじゃないか?」とか考えた訳だよね?

そういうふうに発想したのだとしても凄いし、何の前例もないのにあたかも知っていたかのように確信を持って擂ったのだとしたら、もう何がどうなってるんだか。

だって、今のオレらって「これは食べ物ですよ」って認定されたものしか食べ物だと思わないでしょ?
それ、最初は食べれるんだかどうだか分からなくて食べた人がいるんだよね? しかも、食べられないような状態のものを擂れば食べ物になるとかってトライをしてた人がいるんだよな。

そんでさ、さっき書いたような「咀嚼行為」をヒントに口に入れる前に予め擂り潰す(つまり、咀嚼を口に入れる前に行う)という事を発想したんだとすれば、それは「手でちぎる作業を道具を使って切る作業に転移した」というのとは違って、「食べるという行為の中で自分は食物を取り入れて何を行っているのか?」という事を意識して、客観的に解析した結果ということになるんじゃないだろうかね?

「食べる」って何だろう?

って事の始まりだったんじゃなかろうか。

もっと言えば「自分はなぜ、腹がへって食べ物を食べるのか?」ってことにも繋がって行く。
それは腹の中に入った食べ物がどのような過程でエネルギーになってどのような作用を及ぼすのかとか、この食べ物にはどのような効果があり、またデメリットがあるのかというのを解明していく科学的な発展にも繋がるし、「ヒトはなぜ食べるのか?」というのは哲学的な命題にもなりそうだよね。

それはそれとして。

で、この食べ物を擂るという行為を、そのままかぶりついたのでは刺激が強すぎる、わさびとかにやってみて、他の食い物にちょっこっと乗っけてみると味が引き立つとか、旨味が出るとかって発想ってもの凄くパワフルでエキセントリックで、なおかつ繊細な感性してる人がいたんだよなと思ったのさ。

昔々にそういう人が存在してたおかげで、僕は深夜においしいご飯を食べられてるんだなと。
夜食には人類の叡智が受け継がれていて、それを味わってるのだと思うと、山わさびでご飯というのはとんでもなく贅沢でスケールの大きな食事である。


要するに、とても美味しかったって話です。






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